かぐや姫の物語
★★★★★ 星5
不自由であることに気を奪われていると、わずかな自由も失ってしまう人間というもの。
↓2014年の初見時の感想(ちょっと暴走すぎたけどロギング)
物語は、語る人と受け取る人がいて完結する。
例えば、四谷怪談にしてもリングにしても僕には悲しい話として完結している。1つの語り手の意思と多数の受けての化学反応は無数。この話は、まさにそれを収斂統合して、上書きしようとする縄としての習わしや思い込みを描いていると感じた。
ムーミンもひとによって様々。かぐや姫をみて思ったのは、ムーミンと共通するところ。地上で誰もが感じる、思うにまかせない事の中で暮らす者達の物語。
映画となりの山田君では、大切な人とすごす時間の尊(とうと)さを光から描き、今回の映画は陰から描いている。
同じ事を語っていても一見まったく別の話のように見えるアプローチがある。リンゴを描くとき、陰を意識するか、光を意識するかの違い。
飲み物のCMで、飲み物を美味しそうに飲んでる人をアップやスローで水しぶきとともに描く手法もあれば、飲み物を失って、喉がかわいてしかたがない人が飲み物を手にいれるまでを描くという手法もある。ただ、この二つの目的は同じなんだよね。
そういう意味で、山田君と裏表になってると仮定してみるのも面白い。
見終わった直後の気持ちは、とにかく満たされた。
物語は喜怒哀楽のどれかを刺激することで、甘い辛い塩っぱいなどはっきりとした味付けになるけど、そのどれかに押し込めることも、僕等がぼくらの自由を奪っていることになる。どれかに決める必要があるのか。カテゴライズする場合に最も大事なのは、どこにカテゴライズするかよりも、みあったカテゴリーが用意されているか。それを突き詰めるとカテゴライズ自体が破綻する。それは大きな問題だろうか。カテゴライズが僕等にもたらす幸せとは何か。それは選択の悩みの軽減。つまりそのほうが楽だからそうしているだけの事であって、それらを楽しむ段階では、それはカテゴライズとの不一致に気をとられ、それぞれの物語がもっているユニークさを否定する暴力のようにも見える。
かぐや姫が地上で「かがやき」を失っていくのは、求婚者のつまらない嘘でも、問答無用に抱きつく御門の無神経さでもなく、天人の世界ので暮らしを投げ打ってまでも育んだ、幸せに対するプライオリティが地上と自分の間で違いすぎたことによる絶望によるもので、それはいずれは翁や周囲のいとしい人々に対しても広がりかねないと気付いたとき、ここには居られないと考えてしまったんだろう。だから月へ帰るという物語上もっとも重要な事柄の決定は、月をみあげるかぐや姫が独りで知らされる。その事実は翁や周囲のものだけでなく観客にもあとから知らされた。
そこまで追いやった社会の仕来りや常識からくる幸せのおしつけは、普段の暮らしの中では上手に利用することで、個々がさほど賢く考える必要もなく、全体に調和をもたらす便利なものだ。
例えば中国から伝来した季節の考えかた二十四節気。日本人はそれを受け入れたあと、それに縛られることなく独自に七十二候に深化させた。二十四におしこめられたくないという情熱がそうさせたように。それはもしかしたら、他国の常識だったから否定出来たのかもしれないから、もっと身近な常識を否定するのは並大抵の事ではないのかもしれない。
高貴な者はこうあるべきという当時ゆるぎなかった社会常識や
変化してゆく夫婦制度なども時代とともに変化する。現代から振り返ってみれば滑稽にみえる翁に僕等はなっていないか。僕等はそのような縄にしばられてないか。
そういうしきたりや常識に限らず前例は僕等に安心をもたらす。例えば、人は80歳程度で死ぬというのも常識として21世紀の現代人が持っている。しかし、平安時代の平気寿命は20〜30歳という話を訊きます。もし、これが現代なら、今をこんなにのんきに暮らせているのか。逆に明日、突然医学が発達し、平均寿命が200歳となった場合、人々はどんな気持ちになるんでしょう。そんなに頑張らなくてもいいと思うか、そんなに先が長いのなら自ら寿命を選択できるよう法整備を望むでしょうか。いずれにしても、常識やしきたりによってぼくらは、ある意味快適にしばられている部分もあるわけです。
しかし、これは常識のトリックです。例え平均寿命が80だったとしても、それは平均であて、自分とは実際には関係ない数字です。本来このようなことに一喜一憂するのであれば、トリコーダーのような高度のセンサーでもつかって、各自の遺伝子や生活週間から個々の推定寿命を算出し、それをもって、自分は60だからもうすこし毎日を充実させようとか、自分は100だから、我慢してた食べ物をすこし増やしてみようとか思えるんです。ただ、それは今の医学や科学では可能かもしれませんが、とてもコストのかかるめんどうなことです。それよりも、全体の平均寿命を元に暮らしたほうが楽なんです。
この楽というのが、実は明日しぬかもしれない切迫感から解放したり、そろそろお迎えがくるかもしれないと自分も周囲も準備ができたりする程度のことで、実際にはもし5年後に死ぬとわかる世界からみれば、そんな各自の人生の密度のコントロールを蔑ろにする雑な数字て何なのって思えるような気がします。もちろん、恐怖から知らぬが仏という意見もあるでしょうが、精神も社会も進歩するなら、そうした恐怖よりも大事な事に目をむけられるようになるのかもしれませんけど。
平均寿命だけでなく、婚姻制度や、季節など、社会の常識やしきたりのような見えないのに大きく社会をおおっているモノは、どこまでいっても全体をつつむことしかできません。
かぐや姫は、21世紀の今よりもっと斜め上の世界にいた人ので、そうしたベールがもたらす恩恵は浸透しなかったんでしょう。
かぐや姫が望んだものは、それら社会の見えないベールではなく、個々を尊重し、論理的な秩序の世界の価値観の上にある充実感だったのかもしれません。だとしたら、天人達が下した罰というのは悪質です。能天気な調べをかなでている場合じゃないかもしれません。地上に降ろすなら、地上の人々をまもっているベールが適用されるように意識だかDNAだかを設定しておかないと。そこは天人モードのままというのは、淡水魚を海に逃がすのと同じじゃないでしょうか。そうそうに、淡水にもどりたくなるのは当然です。そこが罰なのならしょうがないですけどね。
社会のベールが全てなくなったら、きっと不安です。心も科学もベールを取り払うほと発展しないないとしたら。でも、もし今そのベールを取り除けるとしたら。ベールによる弊害が無視できなくなったら、社会は新しいベールを作ってきましたけど、その過渡期には一時的にベールの適用を外れて不安になる人も多いでしょうし、いずれは各自を尊重した社会になるならその時にはベールと呼べるものはもうなくていいのかもしれません。
では、何を大事にしたらいの?なににすがったらいいのか。
ベールをとっぱらうということは、束縛から自由になるということです。しかし自由というのは不安です。ドラクエ2で船を手にいれた時を思い出せばわかります。ドラクエ1なんて橋を渡るたびに敵が強くなるんだから、HPや薬草が心配なら橋を渡りさえしなければいいし、例え渡ったとしても、橋のこっちと向こうでは、敵の強さはほどほどに上がるよう設計されてました。ところが、船で遠くの知らない土地に上陸すると一発で全滅するような敵にであうんです。おそろしいもんです。自由というのは。
でも、束縛からは解放されます。そこはトレードオフですね。
そして、映画の最後に僕等の気持ちをすさぶるのは、おなさ馴染みの捨丸との別れや、両親との別れでした。不安な世界で生きて行くには、独りでは孤独です。だからといって、側にいるのは誰でもいいんじゃないです。いっしょにいたらうれしいと思う特定の大切な人なんですね。捨丸とか両親のような。
不安を共有することでかえって安心できる人であれば不安もかえって蜜の味に思えるかもしれません。
常識に束縛されない自由さと、いっしょにいたい特定の人。
この二つだけ考えておけば、他は大して意味のあることじゃない。そんなメッセージをエンディングの歌を聴きながら、受取手の一人である僕は受信しました。それが2014年正月に初見したかぐや姫の物語です。
その時の受取手の僕の変化によって、物語はいろいろかわってみえます。ポンポコなんて初見では楽しいなぁと思ってたのが、ここんところでは目汁たれまくり映画になってます。困ったもんです。
かぐや姫の物語も、これからきっと何度も鑑賞して、そのたびに、その時の自分が受信した物語として完結させてみたいなと思います。
2014年01月04日
感想文
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