なんとなく言葉で説明しても、理解しあえない
2種類の人のあたまんなかについて考えてる草稿です。
現実は、自分のまわりにあるんじゃない。
現実は、自分の中にある。
これに気づくか、気づかないかで人生はすごい違う。
「雨の日のお箸」という箸があるとする。
その箸は晴れの日には使わず
雨の日だけ使うコトとスル箸で
とくに天気や湿度などを計算して
使い勝手がかわるわけじゃない。
この箸を手に入れて
無条件に楽しめる人と
それは頭がおかしいと思う人がいるかもしれない。
この2人の差は実はすごく大きく
2人の人生の骨格を左右する。
もちろん、そのルールは宗教的なものによって
強制的に割り当てられた「そうしないと不幸になる」
みたいなものとは違い、外的な要因に左右されない
意思によって受け入れられるものだけが前者だろう。
生きるか死ぬかというような
生命維持に関するところではなく
どちらかというと、それとは結びつかないところでの
2人の判断の差に注目。
楽しめる人は
晴れが続くと、箸がつかえないなぁと思い
そして雲行きが怪しくなると、洗濯物や
傘の心配をすると同時に、あの箸を使えると思うだろう。
別に無駄なだけだと思う人は
晴れの日でもその箸を使い
雨の日でも別の箸でも、その箸でも自由に
いつでも選べる合理的な暮らしを送れるだろう。
合理的な考えての人でも
一方で、誕生日やクリスマス、正月など
カレンダーのイベントを考えてみると
そのルールゆえに意味があるものだと言えるかもしれない。
いや、1月1日は万国共通で世界的にも
年が替わる節目なのだし、誕生日も
自分が生まれた日なのだから
誰も祝ってくれなければ寂しいのは合理的と
考えるかもしれない。
ただ、宇宙や自然界の視点で引いて考えると
1月1日というのは、人間が考えたルールの上での
話でしかないと気づくはずだ。
誕生日にいたっては、極端な例でいうと
2月29日生まれの人にとっての誕生日は
4年に一度しかないわけで、3月1日でいいじゃないかと
するところに、このルールのほころびがみえる。
3月1日に生まれた人も、現実にいるわけで
2月29日生まれは3月1日生まれではないのである。
そこには論理ではなく、まさに合理性のみに
支配されている可能性がみえかくれする。
3月1日でいいじゃないか。ということは
国が決めたものでも、世界のルールでもない。
各個人がそれぞれに決めるルールなのです。
つまり、そういうことにしておこうよ。
ということそのものが、ルールであり
合理的なことなのではないだろうか。
すると…(続く)
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